オトナとコドモ、どっちが楽しいか論争の末に。
今日4歳の娘に、「こどもってすっごく楽しいんだよ。うらやましいでしょ?」と言われた。
だから、「そうね。でも大人もすっごく楽しいんだよ。うらやましいでしょ?」と言い返してやった。
ちょっと悔しそうな娘。
それをきっかけに、娘と私の「オトナとコドモ、どっちが楽しいか論争」が始まった。
り:「でも、こどもにはおもちゃがあるんだよ。大人にはないでしょ?」
母:「あららー、知らないのね。大人にもおもちゃはあるのよ。」
り:「どんなおもちゃ? 見せて。」
母:「大人のおもちゃは見えないことが多いなぁ。お仕事とかお料理とか。」
り:「そんなおもちゃ、おもしろくなさそう。」
母:「あははー、わっかんないだろーなー。大人になったら、このおもしろさがわかるのよ。」
り:・・・(悔しい)
り:「でもでも、こどもは空をとべるんだよ。ピーターパンみたいに。」
母:「おかあさんだって、たまに空飛ぶよ。気持ちいいんだよねー。」
り:・・・(悔しい)
もちろん、大人と子供どっちが楽しいか問題に決着をつけたかったわけじゃない。
「生きることの喜び」なんてものを教えようなんて魂胆も、特になかった。
ちょっと娘と、思考遊びをしてじゃれたかっただけだ。
けれど、この論争はその後もしばらく続き、気づくと後半はこっちも結構真剣になっていた。
最後は娘の「とにかく! りーちゃんはすーっごく楽しいの!」という怒りの鉄拳で一方的にシャッターが下りた。
やや、うざかったらしい;
ごめんごめん。
その後娘は、ひとりリカちゃん遊びに戻ったのだけど、こっちはなんだか「もうちょっと付き合ってよ・・・」という気持ちだった。
今自分がやっていること、なんでこんなにこだわるのかっていうこと、そこにある何かとても大切なことが、娘とのたわいもない会話から見えてきそうだったのだ。
その夜、ひさしぶりに、祖母の夢を見た。
小学校入りたてくらいの私が、庭先で土蜘蛛をとっている。
ものすごい数の土蜘蛛が集まった。
とった土蜘蛛の巣を縁台に並べて、どの蜘蛛が一番先に顔を出すか心の中で賭けている。
「戻してやんなさい。そこに置いとくと死んじゃうよ」と後ろから祖母の声がする。
私と土蜘蛛は楽しく遊んでるんだから死ぬ訳ないじゃん、と理不尽なことを思っている。
土に蜘蛛を戻したフリをして、両手に土蜘蛛をかかえて友達のところに走って見せに行く。
そんな夢だった。
なんだかわからない高揚感のような焦燥感のような妙な気持ちで夜明け前に目が覚めた。
なんとはなしにブログを徘徊していると、こんなエントリーが目についた。
「3億円あっても楽しくなれない理由は、子供が知っている」分裂勘違い君劇場
はい、そうでした。
そういうことでした。
娘がいま毎日刹那的に繰り返している楽しさは、いつか何倍にもなって根深い人生の楽しさになってよみがえるはず。
そう願う。
砂場で自分のルールをつくるもよし、人のルールにのっかって砂のお城づくりに没頭するのもよし、頑張ってる砂場の仲間に砂を届ける役目だっていい。
立ち位置はなんだってかまわない。
自ら主体的に選びとった場所やもので、瑞々しく遊べる大人になってくれたらいい。
まずは娘の一歩先で、自分がそう生きようと思う。
大人が本気で遊ぶとはどういうことか、「まぁお母さんを見てなさい」、とかなんとか言っちゃいながら。
だから、「そうね。でも大人もすっごく楽しいんだよ。うらやましいでしょ?」と言い返してやった。
ちょっと悔しそうな娘。
それをきっかけに、娘と私の「オトナとコドモ、どっちが楽しいか論争」が始まった。
り:「でも、こどもにはおもちゃがあるんだよ。大人にはないでしょ?」
母:「あららー、知らないのね。大人にもおもちゃはあるのよ。」
り:「どんなおもちゃ? 見せて。」
母:「大人のおもちゃは見えないことが多いなぁ。お仕事とかお料理とか。」
り:「そんなおもちゃ、おもしろくなさそう。」
母:「あははー、わっかんないだろーなー。大人になったら、このおもしろさがわかるのよ。」
り:・・・(悔しい)
り:「でもでも、こどもは空をとべるんだよ。ピーターパンみたいに。」
母:「おかあさんだって、たまに空飛ぶよ。気持ちいいんだよねー。」
り:・・・(悔しい)
もちろん、大人と子供どっちが楽しいか問題に決着をつけたかったわけじゃない。
「生きることの喜び」なんてものを教えようなんて魂胆も、特になかった。
ちょっと娘と、思考遊びをしてじゃれたかっただけだ。
けれど、この論争はその後もしばらく続き、気づくと後半はこっちも結構真剣になっていた。
最後は娘の「とにかく! りーちゃんはすーっごく楽しいの!」という怒りの鉄拳で一方的にシャッターが下りた。
やや、うざかったらしい;
ごめんごめん。
その後娘は、ひとりリカちゃん遊びに戻ったのだけど、こっちはなんだか「もうちょっと付き合ってよ・・・」という気持ちだった。
今自分がやっていること、なんでこんなにこだわるのかっていうこと、そこにある何かとても大切なことが、娘とのたわいもない会話から見えてきそうだったのだ。
その夜、ひさしぶりに、祖母の夢を見た。
小学校入りたてくらいの私が、庭先で土蜘蛛をとっている。
ものすごい数の土蜘蛛が集まった。
とった土蜘蛛の巣を縁台に並べて、どの蜘蛛が一番先に顔を出すか心の中で賭けている。
「戻してやんなさい。そこに置いとくと死んじゃうよ」と後ろから祖母の声がする。
私と土蜘蛛は楽しく遊んでるんだから死ぬ訳ないじゃん、と理不尽なことを思っている。
土に蜘蛛を戻したフリをして、両手に土蜘蛛をかかえて友達のところに走って見せに行く。
そんな夢だった。
なんだかわからない高揚感のような焦燥感のような妙な気持ちで夜明け前に目が覚めた。
なんとはなしにブログを徘徊していると、こんなエントリーが目についた。
「3億円あっても楽しくなれない理由は、子供が知っている」分裂勘違い君劇場
子供の頃、積み木を使って、自分の思うさま構造物を作り、面白い遊び方を仲間に提案し、みんなで盛り上がることの、なんと楽しかったことか。昨日の娘との論争の続きを、引き受けてもらったような気持ちがして、吸い込まれるように最後まで読んだ。
大人の喜びも、本質的には、これと何ら変わらない。子供が積み木や砂山やトンネルを作るような無邪気さで、気の向くまま、思うさま、縦横無尽に企画を作り、構想をまとめ上げて、あちこちのキーパーソンを説得し、根回しをしまくって組織の意思決定メカニズムを操作し、利害関係を調整し、プロジェクトを推進し、それを世の中で実現していくこと。
それらを、気の合う仲間たちと力を合わせてやる楽しさ。仲間たちと一喜一憂し、喜びと悲しみと怒りと高揚を分かち合うこと。
自分が子供の時、砂場で仲間たちと無心に遊んでいるとき、何が楽しかったのかを思い出せば、人生を楽しくするために必要なことが見えてくるはずだ。
自分が仲間たちに、自分のやりたい遊びや遊び方を提案し、それが受け入れられたとき楽しかったでしょう?
自分の納得のいくルールで遊べるのが気持ちよかったでしょう?
自分の思い通りの形に仕上げていくのが楽しかったでしょう?
仲間たちに、自分のアイデアが認められ、尊敬されるのは、気分が良かったでしょう?
みんなに、楽しいヤツだと思われて、たくさんの友達が集まってくるのが幸せだったでしょう?
仲間たちと、力を合わせて作り上げたものが誇らしかったでしょう?
大人になっても、これらは、本質的に、なにも変わらないのです。
はい、そうでした。
そういうことでした。
娘がいま毎日刹那的に繰り返している楽しさは、いつか何倍にもなって根深い人生の楽しさになってよみがえるはず。
そう願う。
砂場で自分のルールをつくるもよし、人のルールにのっかって砂のお城づくりに没頭するのもよし、頑張ってる砂場の仲間に砂を届ける役目だっていい。
立ち位置はなんだってかまわない。
自ら主体的に選びとった場所やもので、瑞々しく遊べる大人になってくれたらいい。
まずは娘の一歩先で、自分がそう生きようと思う。
大人が本気で遊ぶとはどういうことか、「まぁお母さんを見てなさい」、とかなんとか言っちゃいながら。
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